登山の記録(2015年) |
10月の登山の記録を紹介します。
10月28日 単独行 晩秋の太平山へ 忙しい時には好天が続き、時間があると悪天というままならない天気の中、急遽太平山に行ってきました。昨年の10月19日萩形コースを登った際、時間切れで引き返した地点を上からカバーしようというつまらない目的。宝蔵コースを登り、弟子還り経由で山頂、下りは笹森から萩形コースの目的地点を往復、赤倉岳に登って赤倉コースを下る計画です。 5時真っ暗な中、能代出発。強い雨が降っている。気持ちが折れそう。スマホを忘れたことに気づき引き返す。結局5時30分出発。雨が上がり、秋田市方面が明るい。国道を通り、途中でおにぎりを調達して仁別を目指す。オーパス付近から紅葉がきれいだ。仁別国民の森は紅葉まっ盛り。旭又登山口は誰もいない。7時40分、曇り空の中出発。宝蔵岳コースにはいるとすぐに急登がはじまる。左右の沢の中は紅葉が美しい。尾根上はブナの枯れ葉のじゅうたん。カサカサと音を立てながら登るのはこの時期の醍醐味。遠くに見える山頂は雲の中。8時50分軽井沢尾根着。左に下る軽井沢コースは通行止め。宝蔵岳から弟子還りは左右が切れ落ち、緊張を強いられる。鎖場やロープを頼りに難所を通過。山頂直下の急登は、昨年の11月27日の時より全然楽に感じる。9時50分太平山山頂着。周囲はガスで何も見えない。冷たい北風。寒さに耐えられず、10分ほどで下山。少し下ると周囲が見渡せ、あたたかい。よくあることだが、山頂部だけが最悪の状態。ここからは気持ちのよい稜線歩き。周囲のブナはすっかり葉を落とし、羽毛のよう。10時40分笹森着。ここから空身で萩形コースを下る。かなり荒れているが、踏み跡はわかる。走るように下り、ピークを3つほど越し、30分ほどで前回引き返した地点に到着。そこから登り返し、50分ほどで笹森へ。きれいなブナ林の中を通り、赤倉岳分岐へ。ここでも空身で赤倉岳往復。数十年ぶりに赤倉コースを下る。予想に反して、きれいに整備されており、快適な登山道。しだいに青空も見え始め、周囲の紅葉が輝いてきれいだ。途中で昼食タイム、トップバリューの醤油ヌードルとおにぎり、食後のコーヒー。あたたかな日差しの中、紅葉を愛でながらの昼食。極楽極楽。杉林を通り、14時30分旭又着。車が5台ほど、秋田市消防本部の大きな車が駐まっている。仁別国民の森ではたくさんの人が紅葉を楽しんでいる。旭川公園では老人ホームの皆さんが、真っ赤なもみじを楽しんでいる。いつものことだが、下山すると快晴。ザブーンのお風呂に入り、帰宅。 寒々としたモノトーンの山頂部と下界の紅葉のコントラストが印象的でした。太平山はコースがよく整備され、登りやすい山域です。 登り、宝蔵岳まで1時間30分、山頂まで2時間10分、 下り、笹森まで45分、萩形コース往復に1時間20分、笹森から赤倉分岐まで20分、赤倉岳往復15分、赤倉分岐から旭又まで1時間45分、総行動時間は6時間50分でした。 |
国土地理院発行二万五千分の一地形図「太平山」 |
仁別への道路は枯れ葉の街道 | 旭又登山口の案内板 |
左手の弟子還沢の紅葉 | すっかり葉を落としたブナ林 |
登山道はブナの枯れ葉のじゅうたん | 荒々しい弟子還 |
緊張が走る弟子還の鎖場 | 山頂は雲の中 |
葉を落として寒そうなナナカマド | ガスと冷たい西風の太平山山頂 |
帰りに顔を出した山頂 | 羽毛のようなブナ林 |
笹森、ここから右の萩形コースへ | 萩形コースは膝までのササやぶ |
赤倉コースは快適な登山道 | 下るに従い、紅葉が顔を出す |
ブナの巨木もちらほら | 駐車場に消防本部の車両 |
仁別国民の森の紅葉 | 旭川ダム公園の真っ赤なもみじ |
10月21日 一人行 川口渓谷(大仙市太田町) 実家の太田町に帰ったついでに、川口渓谷の紅葉を楽しみました。太田町には北に真木渓谷、南に川口渓谷があります。真木渓谷は和賀・薬師岳登山口のアプローチに使われています。 川口渓谷は川口川沿いに、奥羽山荘から川口鉱山跡までの一車線7.3kmをいいます。奥羽山荘から1.6km地点で通行止め、最奥の川口鉱山跡まで約5.7km徒歩で1時間30分ほどです。真木渓谷の荒々しさと比べ、女性的な優しさを持つ渓谷です。春の新緑、山桜もきれいだそうです。 奥羽山荘→旧鹿子温泉→桜淵の景→かぶり岩→杉崎権現神社→オブ山の大杉→二又の景→猿倉の滝→ダルマ滝→白糸の滝→桑原の滝→見返りの滝→川口鉱山慰霊碑→水無沢登山口→つくし森→川口登山口→川口鉱山跡と、7.3kmの間に見所が続きます。 川口鉱山 遠く江戸時代に創業、後、佐竹藩の経営となり、その業績大いにみるべきものがあった。銅品位の優良なことは一般に知られ、一時は県内重要鉱山足るべく嘱望されたのであるが、第一次大戦後財界不況の余波を受け一時休山、昭和十五年四月現鉱床に逢着し、同十六年十二月より採鉱に着手したが、昭和三十年に閉山。(川口鉱山跡標柱より) |